2010年4月14日
ウィンストン・チャーチルについて
チャーチルは、1874年11月30日にオックスフォードシャー州ウッドストックのブレナム宮殿に生まれた。ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅である。
父ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公の息子(三男)で、のちに保守党の領袖となり蔵相などをつとめた有力政治家であった。また、母はアメリカのユダヤ人銀行家レナード・ジェロームの次女で、社交界の花形であったジャネット(ジェニー)である。チャーチル誕生時は、それぞれ25、20歳であった。
幼年時代に寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわなかったが、フェンシングは大会で優勝するほどの腕前であった。サンドハースト王立陸軍士官学校を3度受験してようやく合格した。ハーロー校入学自体が、校長の特別な計らいだったといわれる。
1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、騎兵隊少尉に任官した。その後、軍事顧問としてキューバやインドに赴き、本国の雑誌に記事を寄せた。特にインドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、時の首相であるソールズベリー侯に面会を求められている。
1899年のボーア戦争には従軍記者として参加。ナタールで敵に捕われ、捕虜となるが脱走に成功。チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4000ポンドの収益と名声を手に入れた。1900年、保守党から下院選挙に出馬し、初当選を果たした。
1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。夫婦仲は良好で、1男4女をもうけた。末子のメアリー(1922年 - )のみが、2008年現在も存命である。彼女は父とポツダムに同行しており、1979年には母の伝記を出版している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
「偉大な英国人」投票で第1位となった人物です。
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